潮騒は聞こえず(81)

夜9時、いつもの様に清吉が父親の入浴介助に入る。背中を流しながら清吉が「お父さん、今日の輪島は強かったですね。やっぱり横綱と関脇の違いを見せつけましたね」と、父親の機嫌を取るように話しかけた。「お前も見ていたのか」「ええ昨晩の客の口論が少し気になっていましたから」「全くだ、下らねえ言い争いなんかしていやがるから、こっちまで寝そびれてしまった。横綱の輪島が勝つに決まっているだろう。まあ、それはともかく紀子にも話しておいたんだが、もう寝酒の一杯ぐらいは飲んでも良いだろう」「お父さん、それは約束が違いますよ。伊豆の病院を退院する時、今後は一切飲まないと山崎先生の前であれほど誓ったじゃないですか」「そりゃそうだが、寝酒の一杯ぐらいはどうって事はないだろう。大体、世話になった医者の前では誰だって禁酒しろって言われりゃ、はい分かりましたって頭の一つも下げるだろう。そんな事を一々真に受けてどうするんだ」と、貞雄も簡単には折れない。こうなると、どうやっても自分の意志を通そうとして来るだろうと、清吉は思い悩んだ。仕方なく彼は一計を案じた。「お父さん、どうしても酒を飲みたいと云うのであれば私にも条件があります」「どんな条件だ」「前にも話しましたが、健康の為に毎日私と散歩に出て下さい。その散歩が10日間続いたら寝酒を一合だけ出しましょう」「何だ一合だけか」「当たり前ですよ、それ以上は寝酒じゃないですよ。でも散歩しなきゃ一合の寝酒も出ませんよ」「散歩か、面倒くさいな」「お父さん、それは話しが逆ですよ。散歩するから酒がよけい美味しくなるんですよ」「お前はいつの間に、そんなに口がうまくなったんだ。ははぁん、女房に教育されたのか」「そんなじゃないですよ、それより散歩するんですか、しないんですか」「仕方ねえな、分かった、分かった、散歩に行く。その代わり今晩から飲ませろ、な!」「駄目ですよ、10日間の散歩が続いてからです」「この野郎、てめえも相当に根性が悪いな」「根性が悪かろうと、何と言われようと約束は約束です」「畜生、勝手にしやがれ」と、貞雄はかなり不機嫌な顔をしていたが、清吉はもうそれ以上は取り合わなかった。風呂から出た父親に冷たい牛乳を一杯そっと差し出した。「ほら、風呂上がりの牛乳は美味しいですよ」貞雄は喉が渇いていたので誘われるまま一気に飲んでしまった。「どうです、風呂上がりの牛乳の味は、なかなかのもんでしょう、健康にも良いし」と清吉に言われ、確かに美味しいとは思ったが、そのまま認めるのも癪に触るので「お前は何時から医者になったんだ」と、遣り返した。

明日に続く
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