潮騒は聞こえず(82)

こうして貞雄と清吉の散歩は始まった。昼の忙しい時間が一段落した3時から30分ぐらいが定刻の時間となった。始めの内は階段を下りるのが一苦労だったが、それも段々と慣れて来た。ぶつくさ言いながらも三点杖での歩き方も安定して来た。10分も歩くと疲れるらしく、公園のベンチで一呼吸を入れる。ものの1週間もすると杖を使う右手にマメが出来はじめ、それが痛いと言って散歩に出なくなった。それでいて毎晩の様に「酒をくれ」と、怒鳴り出した。「俺はこれでも頑張って散歩をしたんだ。清吉の奴が散歩、散歩とうるさく言うから、みろ手にマメまで出来てしまったじゃないか、これでも未だ寝酒の一杯も出さないか」と、紀子にまで八つ当たりをして来た。「私は清吉さんの言葉に逆らえません」と、彼女は素っ気なく返した。「何が清吉だ、あれは俺の息子だ」「息子だからこそ、お父さんの体を心配しているのです」「嫁の癖に俺に口答えするのか」と言われ、紀子は「出過ぎた口を聞いて申し訳ありません」と答え、その場を去ろうとした。しかし貞雄が急に話題を変えて来た。「ところで、紀子は嫁に来て何年になる」「はい、お世話になって9年になります。それが何か」「9年にもなって何故、子供の一人も出来ない。どっか体でも悪いのか」と、最も聞かれたくない質問をして来た。これまで紀子の病気に関して夫婦共にほとんど説明をしていないので、清吉の父親としては当たり前の疑問とも言えた。もっとも伊豆の病院で彼女が病院に2ケ月あまり入院して大変だった事は、清吉の口からこの4月に話してはあるのだが病人特有の自己中心主義で、貞雄は全く耳を貸さず何故、何ケ月も見舞いに来なかったのかを責めるばかりだった。だから貞雄の脳裏には彼女の病気の事など全く入っていなかった。しかし彼女にしてみれば、貞雄のその質問ほどに残酷な問いかけはなかった。それでも彼女は自分の感情を出来る限り押し殺し「すいません、まだ店の用事がありますから」とだけ言って、貞雄の元から逃げた。店は夕方の仕込みで忙しい時間帯だった。しかし紀子の真っ青な顔を見て、清吉は厨房から抜け出し彼女のそばに寄って来た。店の店員には気づかれぬように一階奥の和室に入って襖を閉めた。清吉が「どうした何があった、親父に何か言われたのか」と、紀子を慰める様に問いかけて来た。紀子は小声で泣きながら「私はもう駄目です。女としては役に立たないんです、あなたに子供の一人も作って上げられないのです。それに年も30です。あなたは34の男ざかり、未だ幾らでも子供は作れるはずです。お願いです離縁して下さい」と、今にも死んでしまうかの様な訴え方をして来た。
明日に続く
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