潮騒は聞こえず(83)

清吉は元より紀子と離婚するつもりはなかった。子供は欲しいとは思ったが、他で作りたいなどと考えた事もなかった。子供がいなくても夫婦二人で労わりながら満足な人生は送れるものと信じていた。問題は父親の貞雄をどうするかである。父親の時代、子供の作れない女は女とは見なされなかった。男子世襲制度が一般化している時代では、男子の出産をもって始めて嫁の資格が得られたと云っても過言ではなかった。まして子供一人も授からない女は「石女(うまずめ)と蔑まれた」時代もあったのだ。父親の貞雄は正に、そう云う時代の人間であった。そんな父親に清吉の今の気持ちを、どのように伝えたら分かってもらえるか思いつかなかった。しかし親子三人が諍いなく過ごして行くには、父親を何とか説得して行くしかない。夜9時、またいつもの様に貞雄の入浴介助に清吉が二階に上がって行く。背中を流しながら「お父さん、右手のマメは未だ痛みますか」と、尋ねる。「まあ痛みはほとんど楽になったが、散歩は未だ無理だ。それより、何時になったら寝酒を飲ませてくれるんだ」「また、その話ですか」「その話じゃあないよ、他にどんな楽しみがあるんだ。頼むから寝酒の一杯を飲ませてくれよ。毎日とは言わない、二日に一度でも良いから、な!」「それでは私の話を真面目に聞いて頂けるなら、二日に一度の寝酒は出しましょう」という清吉の話に、貞雄は身を乗り出して来た。「この4月、伊豆の病院に私が見舞いに行った時の事を覚えていますか、桜の花が見事でしたでしょう」「うん、そんな事もあったな、それがどうした」「あの時は3ケ月近くも見舞いに行かなかったので、お父さんは怒っていたでしょう」「そうだ確かに、お前は何ケ月も来なかったな」「その時に説明したでしょう、紀子が大病で2ケ月近くも大学病院に入院していたって」「そうか、そんな話は聞いた覚えがないな」と、貞雄は無頓着に答えた。「それと寝酒と、どんな関係がある」「さっき、お父さんは紀子に未だ子供が出来ないのかって聞いたでしょう」「それが何か悪いのか」「だから、そんな大変な病気をした紀子に子供が出来ないのかって聞くのは可哀想だと言っているんですよ」「何が可哀想だ、嫁に来て9年もたつのに孫の顔の一人も見れない俺の方が、よっぽど可哀想だろう。子供が出来ないなら、嫁として役に立たないじゃないか。いっそう紀子とは別れてしまえ」と、声高に貞雄は言った。
明日に続く
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