潮騒は聞こえず(84)

清吉は言葉を失っていた。かって自分の父親に、ここまでの怒りを感じた記憶はない。如何に父親といっても物には限度がある。何の落ち度もない紀子と別れろ、などと言われる筋合いはない。大体が紀子の今までの二回の自然流産だって、アル中だった貞雄の隣近所での絶え間ない諍いの数々が彼女の身体にどれ程、負担をかけたのか、自分に代わって警察に謝罪し引き取って来たのも一度や二度ではない。紀子が子供の産めない身体にしてしまった原因の一端は、お父さん、あんたにもあるんですよと、怒鳴りつけたい思いだった。しかし浴室で貞雄の頭を洗いながら「紀子とは別れませよ」と、あらゆる感情を押し殺して一言だけ言った。「何だ、女房がそんなに好きか」と尋ねて来たので、「はい、好きです」と、素直に答えた。「情けない男だ、まあ良いや。それより寝酒の事はどうなった」と、彼に取っては最大の関心事を聞いて来た。「それは最初の約束通り、10日間の散歩が実行できたらと云う事にしましょう」「何が約束だ、さっきお前の話を真面目に聞いたら寝酒は飲ますと言ったばかりじゃないか。親を騙すのか」「そうですか、そんな事を言いましたっけ。覚えていないな、まあ健康の為もう少し我慢をしましょう」と、さりげなく答えた。「この、この、人を苔にしやがって…」と、清吉を罵ったが、彼は自分の感情と云う感情の全てに蓋をして、それ以上は口もきかなかった。少しでも感情の蓋を緩めると、自分でも何を言い出すのか、濁流のように次から次へと罵詈雑言が溢れて出てしまうのではないか、それが父親であろうと否、父親であるからこそ積年の怨みが噴き出てしまう事を彼は恐れた。その夜、一年半ぶりに紀子と交わった。彼女への愛しさと哀しさが幾重にも折り重なって、全身で彼女を慈しまずにはいられなかった。それは性愛ではなく、正に聖愛そのものだった。紀子は彼が自分の寝床の中に入って来た時に少し身を引いた。もう自分には、その様な行為を受け入れる資格がないと思っていたから。でも清吉の目は、今にも泣き出しそうな、幼き子供が母親にすがる様な面差しで紀子の寝床に入って来た。そして彼女をそっと抱きしめた。「俺の様な男の嫁になって、お前は可哀想だ」と言いながら紀子の胸元を愛撫した。「私こそ、こんな身体であなたのそばにいて良いの」と、夫の手の動きをそのままにして答えた。「俺には紀子、お前がどうしても必要だ。お前のいない人生なんて考えられない。あんな親父なんか捨ててもお前は離さない」「でも私は子供も作れない女ですよ、それでも本当に構わないの。赤ちゃんは欲しくはないの」「もうその話は止めよう、子供のいない夫婦ほど仲が良いって言うらしい」と言いながら、清吉の手は紀子の下腹部を何時の間にか探し求めていた。
明日に続く
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