潮騒は聞こえず(85)

紀子の下腹部には手術の傷跡がはっきりと残っていた。術後8カ月以上はたっているがややケロイド化した痕跡は決して美しいとは言えなかった。紀子は始めの内こそ少し嫌がっていたが、清吉は涙ながら慈しむ様にその傷跡を幾度ともなく撫でた。狂おしいまでに彼女が愛しかった。父親の貞雄が無神経な言動を発すれば発するほど紀子への愛しさが募って行く。女の下腹部、そこには何がある。愛だけではなく欲望もあるだろう。だがそれ以上に最も聖なる場所、生まれ出ずる原点がある。その原点喪失に紀子は女としての自信を失いかけていた。しかし子供を産む事だけが女の一生ではない。人間として愛する夫と寄り添って生きて行く一生もある。例え子供に恵まれなくても心豊かな夫婦生活を送っている人たちは幾らでもいる。そんな思いに駆られ清吉は紀子の下腹部を探し求め、その傷跡を慈しんだ。慈しむ事により彼女の女としての尊厳を取り戻したいと願っていたのかもしれない。それにより何が何でも紀子と一緒に生きて行くと自分自身に誓っていた。限りなく彼女を愛しんでいたい。性的欲望ではなく今夜だけは紀子と二人、生まれたままの姿で抱き合いたかった。父親への哀しいまでの感情の抑制が紀子との、あるがままの裸の接触で、耐え難い心のバランスを保とうとしていたのかもしれない。紀子も彼の苦しい気持ちは理解していた。そして清吉との一年半ぶりの夜の営みで、始めこそ子宮を失った女とも言えぬ、自分の身体に自信を失いかけてはいたが、愛の営みとはそんな浅薄なものではないと清吉が教えてくれた。子宮など無くても愛する者には全てが美しく感じられる。首筋も肩も乳房も、お腹の手術後の傷跡さえも、その全てに限りない温もりが伝わって来るではないか。彼女は何時しか、すすり泣きをしていた。夫の果てしなき愛撫の中で女としてのプライド、生きて行く事への自信を取り戻していた。彼等は朝まで心地よい夢の世界にいた。しかし、その後の清吉と貞雄の関係は徐々に悪化して行った。先ず紀子が貞雄への毎回の食事の配膳をしなくなった。清吉も父親の入浴介助を一切しなくなっていた。貞雄専属の家政婦が24時間付きで雇われ、彼の日常生活の世話は全てが他人任せとなった。親子の会話も接触も彼等夫婦は極力避ける様にしていた。夫婦が住む場所さえも店に隣接する借家に移してしまった。 明日に続く
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