潮騒は聞こえず(89)

しかし貞雄から、子供も作れない紀子とは別れてしまえと言われて以来、親子三人の同居は困難になってしまった。事実それまでは親子三人、店の二階で同居していたのに今は店に隣接する借家に若い夫婦は引っ越してしまった。店の二階は四室もあるのに、貞雄と彼の家政婦しか住んでいない。後の部屋は荷物置き場となっている。貞雄は自分の不注意な言動が彼等夫婦をどれだけ傷つけたかは全く考えもしていない。清吉は貞雄の不注意な言動以来、始めの内こそ紀子以上に怒っていたが、そこは血の分けた親子であるから何とか円満に行く糸口を探したいと思い悩んでいた。いっそう貞雄から紀子に謝罪を入れさせるべきだとも考えた。簡単に行くとも思えないのだが。どちらにしても冷却期間が必要だと思い、夫婦揃って貞雄との接触を極力避けた。そんな事は何も知らない貞雄は、一人焦れていた。
1974年の正月が来た。元旦は店を休み、昼近く職員一同の軽い新年会が恒例となっている。嫌がる紀子を何とか説得して「今日の、正月一日だけだから」と言い聞かせ貞雄もこの新年会に招く事にした。家政婦から説明を受けた貞雄は少し迷い顔だったが、それでも嬉しそうに家政婦に介助されながら店の方に下りて来た。職員一同10数名が立位のまま貞雄を迎えた。貞雄を一番の上座に、その左右に清吉と紀子が座った。後は古参の順に座っていった。全員が着座した所で、職員一同が上座に向かって「新年おめでとうございます。今年もお店の繁盛を願って皆で精進します」と、新年の賀を述べた。清吉が鷹揚に「うん、おめでとう。今年もよろしく頼む」と、答えた。それは正に大店(たな)の主人(あるじ)その者の姿だ。貞雄は目をみはる様な思いだ。「あの清吉がこんなにも立派になって」、横に座っている紀子も堂々たる女将振りだ。清吉の堂々たる姿には自分も鼻が高くなった感じだが、紀子の偉そうな態度は鼻につく。貞雄は一人胸の内で呟いていた「子供一人作れない女が何を偉そうに」と。一番頭の板前が先ず清吉の元に酌をしに来た。「昨年はずいぶんと頑張ってくれたね、今年もよろしくね」「へい、ありがとうございます。では、返杯を。あっ、どうもありがとうございます」と、返杯を一気に飲み干し自分の席に戻っていった。今度は清吉が貞雄に向き直り「どうも新年おめでとうございます。まあ今日だけは祝いの席ですから、一献お注ぎしましょう」と父親に酒を注いだ。横で紀子は嫌な顔をしていたが、口には出さなかった。何と言っても4年ぶりの酒だ。それも特選の吟醸酒だ。涙が出るほど美味しかった。
明日に続く
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