潮騒は聞こえず(90)

4年ぶりの酒の美味しい事、俺が今まで飲んでいた安酒とは比べものにならない。また料理の素晴らしい事。板前たちが丹精込めて作った正月料理だ。この酒にこの料理、如何に正月とはいえ、こりゃ極楽だ。「お父さん、今日は正月だから特別ですよ。それでも酒は一合までですよ、後は美味しい特別の玉露茶を用意していますから、それをゆっくり味わって下さい」「お前の所は流行っているだけあって、酒も料理も一流だな」「お父さん、お世辞を言っても酒は一合までですからね」「分かっているよ、だけど清吉よ今日は元旦だ、もう一合だけ大目に見てくれ、なぁ頼む、この通りだ」と、貞雄は拝むように自分の両手を合わせた。 何とも父親が可愛らしく見えた。もう少しで首を縦に振りそうになった。紀子が清吉の顔を気色ばんだ様子でチラリと見た。「お父さん、お酒も本当に味わえるのは最初の一合だけですよ。後は味わうのではなく、ただ酔っ払っているだけです」「お前もまた屁理屈を言うようになったな」「そんな事はないですよ、昔からよく言っているじゃないですか。酒は飲むべき物であって、飲まれるもんじゃないって。今までのお父さんの飲み方をみていると、明らかに酒に飲まれて正体を失っていたじゃないですか」「まあ、お前にそんな風に言われると、俺も返答に困るな」と貞雄の困った顔を見て、紀子の険しい表情も少し穏やかになって来た。「じゃあ、今日はお前の顔を立て一合だけで我慢するか、それじゃ特別の玉露茶を飲ませてくれ」「はい、分かりました。 おい、誰か静岡の岡部町の玉露茶を持ってこないか。特選品だから、いい加減な茶の入れ方をするんじゃないぞ。熱湯なんか直にかけたりしたら、茶の香りを台無しにしてしまうからな」古くからいる女子店員が「分かっています、安心して下さい」といって茶を入れに行った。しばらくして熱からず、温からずの玉露を夫々に趣向を凝らした器に入れて運んで来た。先ずは貞雄に、後は清吉夫婦の許に置かれた。「まあ、お父さん。本当の茶の味を楽しんで下さい」「そうか、お前がそんなに言うなら一杯飲ませもらうか。う~ん、何だこの味は、この香りは。果物のような、それでいて茶の本分を昇りつめた気品と云うか、さっきの吟醸酒より格は上だな。お前はいつもこんな物を飲んでいるのか」
明日に続く
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