潮騒は聞こえず(91)

「お父さん、それは誤解ですよ。毎日こんな贅沢な生活をしていたら、店なんか直ぐに潰れてしまいますよ。それに玉露茶も自分で買い求めた物じゃないです、貰い物なんです」「そうか、それで得心した。それにしても茶と云うのも美味しいもんだな。どれ、ちょっと厠に行って来るか、場所は何処だ」 「おい、誰か厠にお連れしてくれ」「はい、私がお連れします」と、板前見習いの若いもんが大きな声で返事をした。「お父さん、杖を」「分かっている」と言って、結構しっかりした足取りで厠に入っていった。「お前さん戻って構わない。何、大丈夫だ」と、貞雄は若いもんに声をかけた。「じゃあ、何かあったら呼んで下さい」「ああ、そうするよ」と言いつつ、そんな事より貞雄には厠に行く途中、目に付いた沢山の日本酒の瓶の群れが気になって仕方がない。 先ずは厠でゆっくり所用をして、皆の視線がこっちに向いていないかを十分に確認してから四合瓶1本を、ちゃんちゃんこの下に隠し入れ何食わぬ顔をして「少し疲れたから二階で休む」と言って、一人手すりに掴まって自分の部屋に戻ってしまった。その身の軽い事、清吉も他の店員も多少なりとも酔っていたので気づかなかったが、紀子だけは訝し気な思いで見ていた。 寝室までは夢中で戻り隠し持って来た戦利品を確認した。銘酒「真澄」だった。心臓が高鳴る程うれしかった。「畜生!何とか一升瓶を持って来たかったな」と貞雄は少しばかり悔しがったが、彼の今の体力ではとても無理な話だ。ともかく四合瓶を隠し持って来ただけでも上出来だろう。大体杖さえも一階の厠の脇に忘れている。正に「一念天に通ず」で、酒をどうしも飲みたいと云う願望がやっと実った。これまでは一人で階段を上るなんてのは考えた事もなかったが、今日は不思議に何の苦痛も感じなかった。 先ずは四合瓶の蓋をもどかし気に開け、瓶ごとラッパ飲みにしてみる。「うめえ!」清吉に何だかんだと説教じみた事を言われながら飲む酒とは、まるで味が違う。一人で飲む開放感がたまらなく良い。しかし一合も飲まないうちに早くも酔いが回って来た。下の店の方では未だ陽気な声が聞こえて来る。貞雄の事はすっかり忘れている様だ。急に眠気が襲って来た。残った日本酒はベッドの下に隠し、後は倒れる様にベッドで眠ってしまった。
明日に続く
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