潮騒は聞こえず(92)

夜7時、夕食を運んで来た家政婦に起こされる。3時間以上は眠ってしまったみたいだ。家政婦は部屋に入るなり「何か酒臭いですね」と、言って来た。貞雄は少しドキッとしたが、「今日は正月だから特別に倅が酒を飲ませてくれたのよ」と、然りげ無く答えた。「そうですか、それはようございました」と、何の疑いも持たなかった。 夕食を取りながら貞雄は考えた。酒の匂いか、今日の所は良かったが何か考えないといけないな。清吉に変な告げ口でもされると厄介な事になる。毎晩9時になると入浴の時間だ。以前は清吉が介助してくれていたが、近頃は家政婦の仕事になっている。始めのうちこそ家政婦の介助にやや抵抗もあったが、伊豆の病院ではナースや補助看にやってもらっていた事を考えれば、それも直ぐに慣れた。 父親との確執もあったが近頃の清吉はかなり忙しくなっていた。新宿に新しい「ことぶき」の店を立ち上げていたのだ。60坪程の手頃な土地が見つかり、そこを「ことぶき」2号店にするつもりでいる。建物はかなり出来上がっていたが、板前やら店員やらの人探しに時間が取られていた。だから彼が調理場に入る事はなくなっていた。紀子との関係も上手く行っていた。 貞雄も「紀子とは離婚してしまえ」などと言った、自分の軽薄な発言はすっかり忘れていた。いつも夜の入浴が終わると家政婦の仕事は終わりになる。呼び鈴が置いてあって何か用事があると、それで隣室にいる家政婦が来る様になっている。しかし呼び鈴を鳴らす事はほとんどない。家政婦は11時過ぎになると寝てしまう。店の方は12時過ぎには店員のほとんどが帰ってしまう。貞雄も11時ぐらいには寝てしまうのだが、今夜に限って寝付かれなかった。昼酒を飲んで3時間も眠ってしまったからだろう。
明日に続く
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