潮騒は聞こえず(93)

貞雄は眠れぬまま、ベッドの下に隠して置いた日本酒を瓶のままチビリチビリ飲み出した。やっぱり酒は命の水だと、上機嫌である。まだ一合ばかり飲んだ所で、こんな四合瓶ぐらいじゃあ直ぐ終わってしまうと気づいた。時刻は午前1時を過ぎていた。店の者は皆んな帰っている。家政婦もすっかり寝付いている。彼は決意した。なるべく足音を立てず一人で手すりに掴まりながら一階まで降りて行った。そこは宝の山だ。一升瓶は無理でも何とか四合瓶2本を、ドテラの懐に入れゆっくり足音を忍ばせ自分の寝室に戻って来た。何か大冒険をやり遂げた爽快な気分だ。体もポカポカして来た。部屋の中が暑苦しく感じる程だ。少し窓を開け一呼吸した。10分程して飲み残しの真澄をまた飲み始めた。これで心置きなく飲める。まだ2本も手に付けていない四合瓶がある。こんなに心強い事はない。まあ、何と幸せな事だ。それにしても俺の何処にこんな体力が残っていたのだろう。自分ながら不思議な思いがしていた。「そうだ、窓は少し開けといた方が良い。そうすりゃ酒の匂いがこもらないだろう」と、妙な知恵まで湧いて来た。ドテラの上から毛布を被って寒さを凌ぎながら酒を飲む姿は他人が見たら滑稽に写ったかもしれない。真澄の四合瓶を飲み終わった頃は午前3時を回っていた。さすがに眠くなって来た。窓は閉め直ぐに眠ってしまった。朝7時に家政婦が朝食を運んで来たが、貞雄は「体調が良くないからもう少し寝かせて置いてくれ」と言って、ベッドの中から出て来なかった。「ご主人様にお知らしますか」と、家政婦は心配そうに尋ねたが、「余計な事はしなくても良い。昼ぐらいまで寝て入りゃ治る」と言って、そのままベッドから顔も出さなかった。仕方なく家政婦は自分の部屋に戻りイヤホンでラジオを聞いていた。昼12時、家政婦がまた食事を運んで行くと貞雄は大きな欠伸をして起き出した。食欲も旺盛だった。家政婦は安心して朝食を食べなかった話は誰にも言わなかった。こうして貞雄の夜中の酒運びは習慣化した。特に水曜日は「ことぶき」が定休日なので、昼間から店に人はいない。家政婦が食事の買い物に出かけた時などは、酒運びは容易に出来た。そして面白い事に、この酒運びをするうちに貞雄の体力も徐々に上がって来た。それに以前ほどは酒も飲めなくなって来た。何と云っても隠れて飲む酒だから、飲む量にも制限が加わって来る。
明日に続く
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