潮騒は聞こえず(97)

一体こんな時間に紀子は何処に行ったのだ。何か急用があるならば置き手紙の一本も書いておけばいいのにと思っていた瞬間、電話のベルがけたたましく鳴った。夜中の電話はいつも不吉な事の前兆だ。「あなた、あなたなの。今お父さんが息を引き取ったの」と、紀子のヒステリックな声が聞こえて来た。「ともかく直ぐ病院に来て、お願い、ともかく直ぐに来て」と、清吉の一切の返事を聞かず電話は一方的に切れてしまった。親父の貞雄が死んだ、如何に入院中とはいえ、その現実は清吉の想像をはるかに超えていた。これまでにも母、富江の死、紀子の母、道子の死と幾つもの親族の死と向き合って来たが、何故か貞雄の死だけは現実離れしていた。これから先も何十年とアル中の問題で自分達は苦しみ続けるものと信じて疑わなかった。それが突然に死んだと聞かされ、運命の悪戯の様なものを感じた。ともかく深夜のタクシーを何とか掴まえて病院に向かった。深夜と言うには限りなく朝に近かった。紀子は貞雄のベッドサイドで何も語わらず座っていた。ドクターがそばに寄って来た。静かな声で「奥様の立会いの許で死亡推定時刻を4:50としましたが、それで宜しいでしょうか」と、医師が慇懃に尋ねて来た。「病名は恐らく急性心筋梗塞だと思われます。もし、ご家族のご許可が頂けるならば解剖をして死亡原因の徹底的な追求をしたいと思うのですが、御承諾頂けますでしょうか」と、担当医師が丁寧に尋ねて来た。清吉はアル中で傷んだ父親の身体がどこまで蝕まれているのか限りない興味を抱いていたので迷う事なく承諾した。紀子が「何故、解剖なんか今更するの」と、小声で聞いて来た。「アル中の親父の最期の生き様の終りに、何があったのか知りたかったのだ。日本酒二本を持って階段から転落して死んでいくなんてのは、もっとも親父らしい情けない最期だ」と、言いながらも清吉は泣いていた。紀子はそれ以上に話す言葉が見つからなかった。病院の解剖室は地下一階の薄暗い殺風景な空間だった。数名の病理解剖の専門医が手際よく処理して行く。外科医の手術とはまるで意味が違う。正に処理と云う言葉が最も適切な表現であろう。頭から足先まで細部にわたり注意深く観察して行く仕事だ。数時間以上にも及ぶ神経の使う作業でもある。その間、家族はただ待ち続ける。もう7月だと云うのに梅雨の雨が降り続き少し肌寒い日だった。清吉は一日の厳しい仕事を終えてから未だ一睡もしていなかった。紀子も2時間ほどしか寝ていない。解剖の結果を待つ間、二人は肩を寄せ合う様にしてしばらく眠ってしまった。
明日に続く
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