潮騒は聞こえず(98)

午後1時過ぎ、やっと医師から解剖の結果が報告された。生前予測の急性心筋梗塞ではなく、直接死因は胸部の解離性大動脈瘤の破裂との説明であった。また肝臓は肝硬変症を呈しており、ほとんどアルコールを受け付けられる身体ではないとも言われた。更に長年の飲酒癖で脳萎縮は年令に比べかなり悪化しているとの説明も付け加えられた。
「これ以上の詳細は後日、報告書として提出しますので十日程お待ち下さい」と言って、医師は一礼しそのまま去ってしまった。彼の後姿にも濃い疲労感が漂っていた。
しかし解離性…とか云う病気は、どんな病気なんだろう。全く見当もつかない。しばらくして病理解剖室から別の医師がもう一人出て来た。
清吉は遠慮も忘れ「中沢貞雄の息子ですが、ただ今、中沢を解剖していただい先生のお一人でしょうか」「はい、確かにそうですがそれが何か」「いえ先ほどの先生が解離性…とかって仰っていたのですが、それはどんな病気でしょうか」「解離性胸部大動脈瘤の事ですね。大動脈と云うのは通常3枚の壁(筋層)で保護されているのですが、その3枚の壁の2枚が断裂して1枚だけの壁で何とか支えられているのです。すると1枚の壁だけでは支えられなくなって、その最後の壁も破れてしまい体内で大出血を起こし死亡に至るケースがほとんどです。胸部にも腹部にも出来ます」「原因は何ですか」「色々な原因が考えられますが、先ずは高血圧、自己免疫疾患、家族性の結合織疾患などが多いです」「アルコール中毒は、どうですか」「過度のアルコールを長期にわたり常用しておりますと、当然動脈硬化を悪化させますから動脈瘤を起こす危険性は強くなるでしょう」「お忙しい所をお引き止めして申し訳ありませんでした。とてもよく理解出来まして、ありがとうございます」「いえ、では失礼します」と言って、医師は立ち去った。
「やっぱりな、何だかんだと言っても親父は酒で自分の人生の総てを飲み干してしまったのだろう」と、清吉は一人呟くように言った。紀子は黙って頷くしかなかった。「それもこれも親父の人生だ、誰にもどうする事なんか出来はしない」と言いながら、清吉は父親が新大久保の店の二階から日本酒二本を持って転がり落ちて行く憐れな姿を思い出しては一人涙ぐんでいた。
もしかしたら俺が父親を殺したのかもしれないとさえ考えてしまう。どうせ長くもない命と知っていれば好きなだけ飲ませてやったものを。あんなコソ泥のような真似をして酒を飲んでいる姿を想像すると哀れでならなかった。
明日に続く
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