潮騒は聞こえず(106)

里美は品川のマンションに引っ越して1ヶ月半、やっと落ち着いて来た。
「ここだと安心して、赤ちゃんとゆっくり出来そうだわ」
「そうだな、ここのリビングだと、ハイハイしても危なくないな」
「それに見晴らしが素敵だわ」
「リビングも8畳と14畳とでは、かなり違うな」
「そりゃそうよ、ベビーベッドを置いても窮屈じゃないわ」
12階建てのマンションで彼女の部屋は7階の3LDKだった。これまでの2DKよりはずっと広く眺望も良く快適だった。
「今までの賃貸では、壁紙やカーペットの色なんかも好きに出来なかったでしょう。それが何だって自分の趣味に合わせられるって、それだけでも自分のお城って感じじゃない」
と、里美は満足しきっている。
妊娠7ヶ月目を迎えお腹の大きさもかなり目立って来た。
クラブの仕事は3ヶ月前に辞めたがマンション探しで、しばらくは忙しかった。
「里美、お前は大事な身体だから無理はするな。前もって俺が幾つかの物件を下調べしておく」と清吉は言ってくれたが、
「嫌よ、清ちゃんと私の愛の巣を探しに行くんだもの。私も一緒に探したいわ」と、常に清吉と行動を共にしたがった。
まだ妊娠3ヶ月を過ぎたばかりで、今回のマンション探しを始めた。体調も不安定そうだが、里美にそう言われると愛しい気持ちも手伝って仕方なくハイヤーを3日間乗り回し、今の品川のマンションを探し当てた。
築4年で90㎡の洒落た造りで里美はすぐ気に入った。まさに即決だった。契約も早ければ引っ越しも早かった。
1981年3月初旬には引っ越していた。里美の出産予定日は6月10日で、産衣やらベビーベッドやらの準備にも忙しく、清吉はいつも一緒にいて買い物にも付き合ってくれた。
「ねえ、清ちゃん。見て、この産衣かわいいね。色はどうしょうか」
「そうだな、しかし男か女かも分からないし、白が無難で良いんじゃないのか」
「そうね、やっぱり白が良いか」
42才で始めて父親になるのだ。彼の頭は今や生まれて来る赤ん坊の事で一杯だった。
紀子との関係で一度は完全に諦めていた赤ん坊の夢が、再び現実のものになろうとしている。
里美は1974年5月9日の伊豆半島沖地震で両親を亡くし19才の年から東京に出て働いていた。
喫茶店のウエイトレスを手始めに、23才からはクラブのホステスに転職、そこで清吉と知り合った。
田舎に2~3人の親戚はいたが、殆ど付き合いはなかった。だから今となっては清吉以外に頼れる人間はいなかった。
そして、これから母親になろうとしている。
明日に続く
関連記事

コメント