潮騒は聞こえず(108)

赤ん坊の名前は翔太と名付けられた。
里美の母乳だけで5ヶ月間は殆んどが間に合った。7ヶ月目にはハイハイが、
1才ではヨチヨチ歩きが始まっていた。
「パパ、ママ」
の発語は1才3ヶ月頃から出始め清吉を喜ばせた。
この頃になると彼も紀子との離婚を真剣に考え出した。
ほぼ完全な別居状態だし翔太の存在も知れているし…半年ほど前に実は彼の口から打ち明けていた。
1982年2月の小雪のチラつく日、久しぶりに大久保の自宅に戻り、夕食を取りながら
「紀子、今夜はお前に詫びなければならない事がある」
「何ですか急に」
「いや、本当に話しづらいのだが…何と言ったら良いのか」
「何ですか、もったいぶらないで、話すなら話す、言いたくないなら言わないって決めたら」
「まあ確かに、その通りなんだが、どうにも俺は口下手だから」
「じゃあ今夜は聞かない事にしときましょう。お酒でも一本持って来ましょうか」
「そうだな、熱いのを一本貰おうか」
「少し待っててね」
と微笑みながら熱燗を取りに立ち上がったが、紀子の目は冷たく澄んでいた。
10分程して彼女は戻って来た。
「さあ熱い所をどうぞ」
と、清吉に酌をしてくれた。
「久しぶりだな、お前に酌をしてもらうのは」
「そうね、でも貴方は家にほとんど居ないから。どう古女房の酌の味は。
それとも何処かの若いホステスさんの、お酌の方が美味しいのかしら」
「何だ、ずいぶんと嫌味っぽいな」
「だって本当の話でしょう。里美さんとか言ったかしら、その可愛い方は」
「何だ急に、驚くじゃないか」
「でも、貴方の顔にちゃんと書いてあるわ」
「俺の顔の何処に書いてあると云うのだ、冗談も程々にしてくれ」
「じゃあ、さっきから何をそんなにモジモジしていたの。
里美さんと翔太君の話をしたかったのでしょう」
「何だって、どうして知っているのだ。そこまで」
「だから言っているじゃないですか、その顔に書いてあるって」
全くグーの音も出ない言われ方だ。
「紀子、許してくれ。全てはお前の言う通りだ」
と、清吉は畳の上に思わず頭をこすりつけた。
「よしなさいよ、そんな芝居がかった事をするのは。
どうせ私は子供一人も作れない女なんだから、貴方が何処で子供を作ろうと偉そうな事は言える立場じゃないのでしょう」
「そんな事は全く考えた事がない、それはお前の考え過ぎだ」
「どんな風に考え過ぎなの」
と、紀子も何時の間にか涙ぐみ始めた。
明日に続く
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