潮騒は聞こえず(110)

清吉は高校時代から
「ことぶき」の手伝いに駆り出され、貞雄が亡くなるまでは仕事一途に励んで来た。
しかし父親の死を境にして紀子との間に微妙な感情の溝ができた。
その溝が埋まらないまま色々な遊びに手を出し始めた。先ずはゴルフに狂い、次にクラブのホステスを愛人にして子供まで産ませてしまった。
紀子との間に子供が出来なかったので、今度は一人息子の翔太に全ての愛情を注いだ。
それが紀子の知る所となり、彼女とも絶縁状態となっていた。
1982年2月、紀子に全てが発覚して以来、清吉は大久保の自宅には完全に足を向けなくなった。
翔太は可愛いくなるばかりだ。翔太が鼻風邪で鼻水を垂らしていた時もティシュを使わず、
清吉はそのまま自分の口で吸い取ってしまった。側で見ていた里美は思わず
「汚い」と口にした。
「何が汚い!翔太の鼻水のどこが汚いのだ。小便だって汚いなんて思った事はない」
と、清吉は自慢気に答えた。
「そこまで行くと、清ちゃんのは親バカを通りこして変態だわ」
と、里美がクスクス笑った。
「何とでも言え、こいつは俺の命だ」
と、少しばかりムキになった。
それにしても近頃は金回りが、いささか窮屈になっている。何時も紀子がいない時間帯に出向く新宿店の金庫が1ヶ月前から変えられ、これまでの様に勝手気儘に100万円単位の金が持ち出せなくなっている。
これには清吉も閉口した。だからと言って紀子の許に出かけ、直談判する自信もない。思案に暮れていると、開店1時間前になって店長の西岡がやって来た。
「これは社長、何にご用事ですか」
と、何もかも知りぬいた顔で挨拶して来た。
「お前、何時からあの金庫は変わったのだ」
「いえね、何時だったか専務が今までの金庫じゃ小さくて用をなさないからと言って大きな金庫に変えてしまったんです」
「それじゃあ俺が困るじゃないか」
「それで専務がですね、社長がまた金庫の中から金を持ち出しに来るから、その時は私から金を渡す様にと申し受けています」
「ふん、あいつもまた手の込んだ事を考えやがって。それでお前は専務から幾ら預かっているのだ」
「はい、100万円ほどですが」
「たった、それだけか」
「たった、それだけかと仰られても私には見た事もない大金なので、預けられている私も落ち着かないもんです。でも今日は社長にお会い出来てほーっとしています」
「まあ、それは良い。ともかく、その100万円を貰おうか」
「はい、ただ今お持ちします」
と言って店長の西岡はレジの奥から100万円の札束を大事そうに持って来た。
「では、社長どうか中をお改め下さい」
清吉は茶封筒の中の帯のついた100万円の一束を見て
「うん、確かに」と言った。
「では、ここに受領印をお願いします。印鑑ではなく社長のサインで結構です」
「何で、そんなものを書く」
「だって社長が受け取ったと云うサインがなければ、私が猫ばばしたと疑われるじゃないですか」
と言われ、渋々「社長100万円受領」と云う書類にサインをした。
何か紀子に騙されている様な気もしたが、ともかく100万円は貰って帰るしかない。
明日に続く
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