潮騒は聞こえず(112)

1982年11月、清吉たち親子は箱根の旅行に出かけた。宮ノ下の富士屋ホテルに泊まった。
翔太は1才5ヶ月になって歩き方もしっかりして来たが、何処へ飛び出して行くか分からないので目が離せない。
ホテル内にある庭園の大きな鯉が珍しいのか、ずつと見ている。そのうち手を出して鯉に触ろうとし、危うく池に落ちかかった。
「翔太、危ない!」
と、つい大きな声を出してしまった。周りの客が逆に驚いて清吉の方を一斉に見た。
しかし清吉は、そんな客達の視線は無視した。実際に心臓が止まる程ビックリしたのだから仕方がないだろうと一人思っていた。
それにしても、里美は平気な顔をしている。
「お前はよく落ち着いた顔をしていられるな」
と、少し不満げに言うと、
「男の子だもん、これからもヒャヒャする事は幾らでもあるわよ。でも大丈夫よ、ちゃんと目を離さずに見ているから。それに、この子は結構慎重よ、清ちゃんが神経質なだけ…」
と、軽くあしらわれた。夕方も5時を過ぎてきた。
「少し肌寒くなって来たみたい、清ちゃん部屋に戻ろう」
「そうだな、部屋に戻ろうか。しかし、紅葉が綺麗だな」
「本当ね!」
ふと、清吉はこの同じ箱根の紅葉を思い出した。
「あれは何時だったかな、ずいぶん昔の様な気もするし、そうでもない様な、そうか紀子のお母さんが亡くなった時だ。
あの時は32才だったから11年前の事だ。何と云う変わり様だ。紀子は必ず幸せにするって誓った俺なのに」
「清ちゃん、何を独り言を言っているの」
「何、ちよっと昔の事を思い出していただけだ」
「それって、何の事。昔の女の事でも考えていたんでしょう」
「そんな色ぽっい話じやない。世話になった人が、この箱根で亡くなったのだ。それが10年ちよっと前の、こんな紅葉の美しい季節にだ」
「そうだったの、馬鹿な邪推をしてごめんなさいね」
「いや良いんだ。俺も急に昔の事なんか思い出したりして悪かった」
と、清吉は里美の前ではさらりと流した。それにしても失われた月日の重さを考えずにはいられなかった。
果たして自分の歩んでいる道は間違っているのではないのかと。
しかし何を言っても清吉にとって翔太の存在が余りに大きく、今やその一人息子は彼の最大の生き甲斐となっている。
だから翔太の問題が絡んで来ると彼の思考はどうしても停止してしまう。翔太の幸福に繋がる事のみしか考えられない。
明日に続く

関連記事

コメント