潮騒は聞こえず(119)

里美の体重はどんどん減って行く。身長160cm、体重49.5kg のバランスの取れた均整は半年もしない内に40kgを割り込んでしまった。
牛乳とかポタージュとかの液体成分は何とか口に入るが体力は日増しに落ちて行く。それでも翔太の栄養バランスだけには気を使っていた。
「バナナはちゃんと食べた、ウンチの出が良くなるから。翔太は野菜を食べないから、イチゴとか果物をしっかり食べさせてね」
「はい、はい、分かっています。それより奥様が、もっと食べて下さらなければ…」
翔太が出産時からいる家政婦も里美の好きな物をあれこれ考えて作るが、それさえも里美は受け入れない。
近くの個人病院で週に3回程度、栄養の点滴を受け何とか最低限の栄養補給をしている。
翔太は元気に育っているが、里美が以前の様に遊んでくれないので少し寂しそうだ。
その代わり清吉がゴルフ通いを止め積極的に里美の世話と翔太の遊び相手をしている。
1984年の正月は形ばかりで寂しく過ぎた。梅の花の季節、里美は急に
「清ちゃん、お願いがあるの」と、切り出した。
「何だい、言ってごらん」
と、清吉はにこやかに答えた。出来る事なら何でもして上げたいと、そんな思いで一杯だった。
「あのね、我が儘は承知なんだけど私、田舎に帰りたい」
「田舎って、南伊豆のか」
「あら清ちゃん、よく覚えていたわね」
と、彼女は嬉しそうだ。
「私ね、南伊豆の板井で潮の音を聞きたいの。潮騒を聞きながら故郷の海の近くで死にたい」
、涙をポロポロ流しながら里美は言った。
「里美、死ぬなんて今から…悲しくなる事は言わないでくれ」
と、言いながら清吉も泣いていた。
「ご免ね、変な事を言い出して。折角、こんな素敵なマンションを買ってもらって清ちゃんには申し訳ないけれど、私は海辺のあばら小屋で潮騒の音を聞きながら、父ちゃんと母ちゃんの所に逝きたい、それだけなの」
清吉は止まらぬ涙を必死で堪えながら
「里美、お前の好きな様にして良いんだ」
、2才8カ月の翔太は不安に怯えた声で
「ママ、ママ」
と泣きながら里美の布団の中に入って来た。彼女は涙を抑えながら懸命に笑みを取り繕って翔太を抱きしめながら
「翔太、翔太、ごめんね。ママがママが悪いの」
と、小刻みに身体を振るわせながら翔太の顔に頬ずりをした。まるで永遠(とわ)の別れを告げるように…
翌朝、里美は静かに息を引きとった。朝の8時、清吉が翔太を起こし紙オムツを外しトイレに行かせる。ぼちぼち排便排尿の訓練をする時期が来ている。
そして父子二人で里美の寝室に顔を出す。
「里美、お早う」
と、声をかける。いつもは翔太がそのまま里美の寝床に入って行き、ママの抱っこをねだる。しかし里美の寝床は冷たかった。ママの温もりは感じられなかった。
子ども心にも、いつもと違うママを感じた。急に翔太は大声で泣きだした。
「ママ、ママ」と。
清吉は我が子を抱きしめながら「ママは疲れて眠っているんだ、もう少し寝かせてあげよう」
と言って、翔太を抱き上げた。里美の顔は安らかだった。果たして伊豆の潮騒の音が聞こえたのかは知るべくもないが、たぶん父ちゃんと母ちゃんのいる所に安らかに逝き着いたのだろう。
里美、享年29才、余りに早すぎる人生の幕引きである。
明日に続く
関連記事

コメント