潮騒は聞こえず(120)

里美の遺言に従い、誰にも知らせず清吉と翔太、それにどうしても参列したいと願う家政婦の三人で余りに寂しい
「野辺の送り」
を済ませた。
里美が亡くなって1ヶ月ぐらいは、翔太を連れ動物園や遊園地で遊ばせた。
昼間の遊び回っている時間帯は楽しそうに過ごしているが、夕方になると
「ママは、ママはどこ」
と、泣きじゃくる事が多かった。
清吉は仕方なく、おんぶしたり肩車をしたりと翔太の機嫌を取る事に苦労した。
しかし男手一人で幼な子を育て上げる事に少しづつ自信を失いかけていた。
自分の為にも翔太の為にも、これで良いのかとの疑問が日々大きくなって来た。
大の男が仕事をするでもなし、ゴルフに行くでもなし、子どもと二人で行楽地を歩き回っている生活にも限界を感じ始めた。清吉は未だ45才なのである。
里美が亡くなって2ヶ月半後の4月下旬、清吉は一大決心をする。紀子の許に電話をいれた。
「実は折り入って相談したい事があるのだが、何時だったらお邪魔しても良いだろうか」
と、遠慮がちに尋ねてみた。
「まあ何とも丁寧な仰り方です事、何の用事かは知らないけど自分の家なんだから来たければ、今日でも明日でもどうぞ。何なら夕食の準備もさせますか、古女房の私とでも宜しければ」
と、かなり嫌味な言い方だが、どんな応対をされ様とも行かない訳にはいかない。
「それでは、お言葉に甘えて今晩にでも良いかな」
「どうぞ、お待ちしていますよ」
「実は甘えついでに、言いにくいのだが、子連れでも構わないかな」
「子連れで!」
と聞かされ、紀子は少し言葉を詰まらせたが、
「分かりました、翔太君が一緒なんですね」
と、聞いて来た。
「その通りなんだか…」
と、躊躇(ためら)いがちに清吉は答えた。
一体、何の用事だろうか、子連れで来るなんて、しかしこの問題はいづれ決着をつけなければならない話しである。そう考え紀子は承知した。
1984年4月25日の夕方6時、清吉は翔太を伴って大久保の自宅の前に立った。玄関ドアホーンを鳴らした。
中沢と書かれた表札の前で「中沢ですが」と言うのも滑稽ではあったが、何故か今日の清吉はそうせずにはいられなかった。
この大久保の自宅に来るのも実に2年2ヶ月ぶりだ。
今さら亭主面で堂々と正面玄関から入って行く勇気はなかった。
ドアホーンから
「中沢ですが」
と言う清吉の声を聞いて、逆に紀子が驚いた。
明日に続く
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