潮騒は聞こえず(121)

紀子が
「何ですか、自分の家のインターホンに中沢ですなんて言う人が何処にいますか」
と言って、出て来た。
久しぶりに見る妻の顔だが妙に色っぽい。それに随分と痩せている。新婚時の体型を取り戻しているみたいだ。
「いや長い事、無沙汰しているからどうにも敷居が高い」
と、清吉は頭をかきながら答えた。
「おや、あんたでも未だそんな
殊勝な気持ちが残っていたのですか。ともかく、お上りなさい。翔太君かい、可愛いね。ボクは幾つ?おばちゃんに教えて」
翔太は黙って指を二本出した。
「そうか、2才になるのか。あんたが、この子に夢中になるのも分かる気がします。そら、翔太君も一緒にいらっしゃい。お水が良いのかね、それともジュースが良いかな」
「水だけで、余り気を使わないで…」
「まあ随分と他人行儀な事ですね」
清吉は静かに切り出した。
「本来、この家に立ち入る事など許される人間ではない事を、重々承知で今日はやって来た。他でもない先日、この子の母親が亡くなった」
「亡くなった!本当に」
「本当だ!」
「でも、未だお若いでしょうに、何が原因ですか」
と、さすがに紀子も驚いた顔をした。
「胃癌だ」
と、清吉は冷静に答えた。
「未だ30前でしょうに、胃癌になんか成るのですか」
「29才だ、病気が見つかって一年ももたなかった」
「こんな小さな子どもを残して、さぞ里美さんも心残りでしたでしょう」
と紀子も、さすがに同情的だった。翔太は清吉にすがり付く様に座っている。
「そこで頼みがある。私は最早、社長でも何でもない。そんな資格もない。持っている私名義の株券は全て返す。
その代りもう一度、板前として私を雇ってもらえないか。勝手に持ち出した5千万円は今のマンションを売って返す。それと翔太を、この家の後継ぎにしてくれなどと云う大それた昔の話は忘れて欲しい」
と、清吉は感情を混じえず淡々と話し出した。考えに考えた彼の結論である。さすがに紀子も清吉の申し出には驚いた。
ここまで人が変わるものか、里美さんの死を乗り越えて、この人は必死に立ち直ろうとしている。
清吉は話しを続ける。
「それと後一つだけ頼みがある。紀子の力で翔太を大学まで出して欲しい。私はそれ以外の望みは何もない。それさえも厚かましい願いだと云う事も分かっている積りだ。
その分は私が、ここで板前として働かせてもらえるなら、そこの給料から翔太にかかる費用は差し引いて欲しい。私は未だ45だ、翔太が大学を出るまでは何とか働けると思う」
ここまで聞いて紀子の瞳からも何時しか熱いものが溢れて来た。これまでの清吉の所業を全て許す気にもなり始めていた。しかし何とか冷静さを保った。
「分かりました、あんたの話しはよく分かりました。板前として真面目に働いてくれるなら、ここで仕事をしてもらいましょう。翔太君の世話もさせてもらいましょう。必要なら、この家に住んでも良いし…」
「いや、それは困る。私はただの板前だ。板前風情が女将さんと同じ家に住んじゃならないでしょう」
と言われ、紀子は結婚当初の純な清吉を思い出した。
明日に続く
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