潮騒は聞こえず(122)

紀子は迷いに迷っていた、この一本気な清吉の言葉に。自分が妊娠と卵巣嚢腫で死にかけた時の彼の涙と労わり、母の道子が亡くなった時の気の遣い方、貞雄を死なせたのは自分の罪ではないかとの苦悩の日々。恐らく、この人は本質的に一本気で純な人なんだ。
若い女との間に子供まで作り5千万円の金を持ち出し、その女にマンションまで買い与えたと聞かされ時は怒りと嫉妬で眠れぬ日が何日も続いた。
この幼気(いたいけ)な子供にも、亡くなった里美さんにも、この人は純な気持ちで尽くしたのだろう。
その間、ある意味では嫉妬も手伝って私はひたすら事業拡大と宝石収集に熱中していた。夫など不要の産物と決め込んでいた。
母の道子も男には恵まれなかった。
尽くしに尽くした徳治にも最後には裏切られた。今でも徳治は、のうのうと何処かで生きているに違いない。
でも清吉は違う。不器用だけど何かが違う。学歴もなければ教養もない、それでも男として最も重要なものを、この人は持っているのかもしれない。
これまでは別々の人生を歩みかけてしまったけど、もしかしたら未だやり直せるのではないかと、紀子は思い悩やみ始めた。それに増して翔太の愛くるしい事、目鼻立ちが清吉にそっくりだ。清吉への思いが変化するにつれ紀子の翔太への感情も暖かい母性的なものへと変わって行った。
愛人の子から母のいない哀れな子へと、切ない思いを抱き始めた。
「翔太君、お腹は空いてないの。こっちにおいで、今日からは私が新しいママよ。ほら抱っこして上げよう」
と、紀子は自分から翔太の方にすり寄り、キョトンとしている翔太を自分の膝に抱き上げてしまった。何と甘い感じの匂いだろう。未だ乳の匂いが残っているのだろうか。
それにしても子供を抱くと云うのは、こんなにも気持ちの良いものなのだ。紀子が始めて知る母性本能だった。
翔太は何が起こったかも分からず、そのまま抱っこされていた。そして急に
「ママ、ママ」
と言って、紀子の胸元に手を入れようとした。
清吉は驚いて
「ダメ、ダメだよ」
と、急ぎ慌てた。
紀子はニッコリ笑って
「良いのよ、こんなモミジの様な可愛い手で触られるなんて、本当のママになった気分だわ」と、目を細めた。
「済まない、本当に済まない。これまでの事を何と詫びたら良いのか」
清吉は汗とも涙ともいえぬものを畳の上にポタポタと落としながら目頭を熱くしていた。
「もう良いわよ、やり直しましょう。二人とも少し寄り道したのよ」
「じゃあ、これまでの事は全て許すと」
「そうは言っていないわ、過去の事は過去の事として、もう一度あなたと努力をしても良いと言ってるだけ。その努力が実るかどうかは、これからのお互いの心がけしだいね」
「ありがとう、それだけで十分だ」
と言って、清吉は紀子に深々と頭を下げた。
明日に続く
関連記事

コメント