潮騒は聞こえず(123)

「そんな軽々しく女房に頭なんか下げるものじゃなくてよ。それよりお腹が空いたでしょう、今直ぐに用意させますから」
「いや、今日はそんなつもりで来たんじゃあないから、ぼちぼち帰らせもらうよ」
「何を言っているんですか、もう7時半ですよ。あなたは良くても翔ちゃんがお腹を空かしています。ねぇ翔ちゃんお腹が空いたでしょう」
翔太はコックリと首を立てに振った。
紀子は得意そうに、
「そら子供は正直ですよ。可愛いそうにご免ね、今直ぐだからね」
と言って、台所の方に出て行った。
前もって用意されていたらしく
ハンバーグ、トンカツ、ポテトフライ、卵焼き、ともかく子供の好きそうな物が次から次へと出て来た。その手際の良さには驚かされるばかりである。
翔太はただ食べていた。何とも嬉しそうだ。清吉は心から感謝していた。紀子が
「子供が美味しそうに食べてくれる姿って良いわね、清吉さんありがとう。こんな機会を与えてくれて」
と言われ、彼は言葉に詰まった。
紀子に観音様を見る様な思いであった。改めて自戒の念に駆られていた。俺は、こんな女を裏切っていたのかと。
次に清吉と紀子の膳が賄い婦たちによりテーブルの上に並び立てられた。刺身、天ぷら、茶碗蒸し、神戸牛のステーキ、赤だしの味噌汁と、翔太に負けない配膳だ。もてなすと云うよりは紀子の意地を感じた。
「お酒にします、洋酒にします」と、紀子が聞いて来た。
「いや、お茶だけで十分だよ」
「そんな事を言っちゃダメ、二人、そうじゃない三人の新しい門出なんだから」
と紀子に言われ、
「それなら少しだけお酒を頂こうかな。何と言っても、ことぶきは銘酒が自慢の店なんだから」
と、清吉も誘われる様に答えた。翔太が急に体をモゾモゾさせ出した。清吉は直ぐに気づき「ちょっと悪い」
と取り繕った。
「どうしたの!」
と、紀子が不審そうに聞いた。
「いや申し訳ない、ウンチをしたみたいだ。先に食べてくれ、ちょっとオムツを変えて来る」
と言って、翔太を連れトイレの方に親子で向かった。
紀子は自分が未だ本当の母親になれていない事を自覚した。清吉は紛れもない翔太の父親なのだと云う思いがひしひしと胸に迫った。
子供を育てると云うのは、このような事の積み重ねなのだ。お金を稼ぐとか、宝石を収集するとかの話とは別の世界なのだと、紀子は思った。
その意味で自分は清吉よりも劣っているかもしれないと感じた。本当に翔太のママになれるのか、一度も子育ての経験のない自分がとも考えない訳には行かなかった。
清吉は翔太のオムツ交換を済ませ
「ご免ね、待たせて」
と詫びた。
「いいえ、私こそ翔太君の事を何も知らないで」
と言いながら、紀子は自分が本当に翔太の母親になれるのかを案じていた。
明日に続く
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