潮騒は聞こえず(128)

紀子が色っぽく誘うように
「良いじゃないの、女房が幾ら若く見えたって。貴方だって嫌な気持ちはしないでしょう。それとも、おばあさんに見えた方が良いの」
「そうは言っていないが、まあどうでも良いか。要するに俺が幸せ者だと言う事だ」
「そうに決まっているじゃないの、貴方以外に指一本触らせた事はないのよ、この肌に。
まあ、翔太は別だけど。あの子は清吉二世だから」
と言われ、清吉は改めて紀子の顔を見た。そのまま言葉もなく彼女の上に覆い被さった。紀子も嬉しそうに、それを受け入れた。
そのまま幸せな一年が過ぎ、翔太は幼稚園の年中で5才になっていた。
6月9日の誕生日も過ぎ、梅雨の雨は降り続いていた。
1986年6月17日の火曜日、昼前から雨は強くなり出した。午後1時過ぎ客も途絶えた。天候の良い日だと2時近くまではランチタイムの客で清吉も何かと忙しいのだが、雨の日はどうしても客足は少ない。
普段なら紀子が迎えに行く日なのだが、清吉が
「今日は俺が翔太を迎えに行く」
と言って、そのまま傘を差して自宅から10分たらずの幼稚園に向かった。
午後1時半、幼稚園終了の時間である。園入口の前で翔太は待っていた。何時もは担任の園田先生と申し合わせ翔太を引き取って来るのだが、その日に限って担任の園田先生は体調を崩して休み、代理の先生が立っていた。
交差点の向こうで翔太と目が合った。翔太は
「パパ」
と言って手を振った。清吉も誘われるように手を振った。
歩道の信号は青だった。翔太がパパの顔を見て、こっちに来ようと走って来た。何時もなら交差点の向こうまで清吉が出迎えに行くのだが、翔太はパパの顔を見て嬉しくなって勝手に青信号の交差点を一人で渡って来ようとしていた。
翔太が道路の三分の一ほど渡りかかった所でジャリトラックが信号を無視して、物凄い勢いで走って来た。
「翔太!危ない!!」
清吉は猛スピードで翔太に体当たりをして、園児たちが並んでいる交差点側に彼を突き飛ばした。
その直後、
「ドン・・・!!」
と云う鈍い音がして清吉の身体が
宙を舞った。
ジャリトラックは、そのままブレーキもかけず20mほど離れた電柱に激突した。
50才前後のドライバーは窓ガラスに頭をぶつけ、ようやく目が覚めた。
完全な居眠り運転だ。後で睡眠時無呼吸症候群である事が知れた。
翔太は軽い打撲と擦り傷ですんだが
「パパ!…パパ!…」
と、何時までも引きつった様に泣き続けていた。
幼稚園側と警察から同時に電話が入った。清吉の身体は救急車が来るまでもなく即死であった。
電話を受けた時
「清吉が死んだ!」
と聞かされ、紀子は何の事か理解できなかった。
「うちの人が死んだって!
どう云う意味ですか…なぜ!」
「奥さん、どうか落ち着いて聞いてください」
と、電話の向こうで警察官が労わる様に説明を始めた。
明日に続く
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