潮騒は聞こえず(129)

-終章-
清吉葬儀の数日後から
紀子は完全に寝込んでしまった。
「何故、何故なの。あの時私が翔太を迎えに行っていたら…担任の園田先生が休みでなかったら…お店が何時ものように忙しかったら…」
と、紀子は煩悶を繰り返し続けていた。
「折角二人の、いや三人の新しい門出が始まったばかりなのに…やっと清吉と楽しい日々が始まったばかりだと云うのに…」
自分が清吉をどんなに愛していたのか、失ったものの余りの大きさに彼女は生きる希望を喪失していた。
ほとんど食事もせず起き出して来ない。翔太の事さえ忘れている。
使用人たちの誰かが、世話を焼いているのだろうが、それさえも意識の中には入り込んで来ない。
2週間程して幼稚園から戻り、翔太が泣きながら紀子の布団の中に潜り込んで来た。
「ママ、ママ!ぼくがパパを殺したの!…ねえ、ぼくが悪いの…ぼくが飛び出して行ったのが…ぼくが死ねば良かったの!」
5才の子供とも思えぬ衝撃な発言に、
紀子は驚き悲しんだ。
「誰が、そんな事を言ったの。翔太は何も悪くはない、誰も悪くはない。総ては神様が決めた事なの」
と、言いながら布団の中で翔太を強く抱きしめ母子共々、泣いていた。
翔太は泣きじゃくりながら、
「園長先生が信号が青でも決して急に飛び出したりしてはいけない。必ず、右を見て左を見て走ったりしないで、歩きなさいって言ったんだ。
ぼくの顔を見ながら、皆の前で言ったんだ!…やっぱり、ぼくがパパを殺したんだ!」
と、叫びながら又泣き出した。
「翔太は何も悪くない、何も悪くはないの」
と言いながらも、紀子の頬から再び涙が流れ出した。
彼等母子は泣き疲れ、そのまま抱き合って一時間近くも眠ってしまった。
眠りから覚めた紀子の脇には翔太がまだ眠っていた。
涙の跡が十分に乾き切っていない。しかし、その寝顔は清吉そのものだった。夫のミニサイズと言っても良かった。思わず、その唇に自分の唇を軽く押し当てた。
清吉がそこに生きているかの様な錯覚におちいった。
「生きて行こう、清吉の分身と!」
紀子は改めて決意した。
「清吉がそれを望んでいる事は確かだ、その為にこそ自分の命を投げ出した。その意志を無にしたら、私はあの人の妻ではない」
と、紀子は自分に言い聞かせた。
そして翔太を静かに抱き起こした。
「翔太、起きなさい。ほら、起きてママと何か美味しい物を食べようよ」
と、必死になって紀子は自分を励ました。生きるしかない、この子と。
同じ様に実の親を亡くした私たち二人だ。
それも自分が心の底から愛した清吉の息子だ、そして翔太も実の母親として私を慕っている。
こうして紀子と翔太の新しい生活が始まった。
2年近くたった1988年5月、名門私立小学校の真新しい制服を着た小学一年の翔太と紀子、どうしても参列したいと言い出して聞かない古参の板前三人が南伊豆の小高い丘に立っていた。それと里美を最期まで看病してくれた、あの家政婦もいた。彼女は紀子と翔太の並んだ姿を見て、まるで本当の母子の様だと思った。清吉が里美の喪も充分に明け切れぬ内に急ぎ紀子の許に帰って行った時は、清吉の余りの変身ぶりに驚き侮蔑したが、この日にわざわざ自分を呼んでくれた紀子の心遣いに感謝の念を感じずにはいられなかった。
それどころか、自分を裏切った清吉と、その愛人の里美に墓まで立てている。そして、その愛人の子を我が子同様に慈しんでいる。
こんな聖母の様な人もいるのだと、彼女は自分の不明を恥じた。
新しく出来たばかりの墓石の前で、翔太を筆頭に紀子、家政婦、板前たちが順番に線香を上げていた。よく晴れた日の日曜日である。
墓石にはつぎの様に刻まれていた。
「中沢翔太の父と母が、ここに眠る」と。
清吉、享年47才
里美、享年29才
小高い丘の下からは絶え間なく
潮騒の音が聞こえて来た。
ここに眠る二人にも、この潮騒の音
は聞こえているのであろうか…
-完-
予告
明日から始まる連載小説は
「迷子の医者」です。引き続きご愛読の程、宜しくお願い申し上げます。
関連記事

コメント