迷子の医者(10)

叔父はそんな体調であるから脳血管障害も起こしやすかったのだろう。今も小脳梗塞の後遺症がいくらか残っていて歩く時のバランスが悪い。
また病人は病人の心を知るとでも言うのか、叔父の姉への関心は、事のほか強いものがあった。
「医者の俊一がやっている事だから、私がとやかく口を出す事ではないが、何時から姉さんの調子は悪かったのだ。そこまで、どうして気づかなかったのか?」
と、明らかに私を責めている。
私としても心に一抹の疚(やま)しさは感じていたが、
「お母さんが、始めて胸の痼りを僕の所に訴えて来たのは、この3月30日なのです。
直ぐ内の病院でCTを撮って、悪性の病気が疑われたので国立がんセンターで胸腺癌の疑いがあると言われたのが4月6日と、わずか一週間です」
と、これ以上のスピードで対応しているのに何の文句があるのだとばかりに私は説明した。
それで一応、叔父も納得した。
信治叔父は母の一番下の妹、幸子叔母から今回の病状については聞かされたみたいだ。母親から実の妹に電話を入れたのだろう。
やはり母親の心の内部では大きな動揺があるのだ。夫はもちろん我々子供達3人も、母親のそんな内面の不安に多くの時間を割いて耳を貸そうとはしなかった。
自分達の日々の忙しさに逃げていたのだが、それだけでもない。
不治の病かもしれない母親と正面から向き直る事に些かたじろいでもいた。
しかしこれから先の母親の残された時間を思うと、やはり出来るだけ長く側にいて、少しでも心の支えになれるよう自分達の時間を工夫しなければならないと感じたりもしていた。
4月14日(土)
朝7時半に起きて、南大野まで電車で向かう。駅改札口で村上先生との待ち合わせである。9時の待ち合わせだが20分前には目的地に着いてしまう。少しばかり待つつもりでいたが、ほとんど同時に彼もやって来た。
春の小雨が静かに降り続いている。傘を持つ指に落ちた滴は冷たさではなく切なさを呼びおこすみたいだ。身に染みるような雨のささやきを聞きながら駅構内を歩いて行く。 私たちの母親、和子、その命の灯は早や消えかかろうとしているのか。
癌と言う不治の病は決定的なのか。その不治の病から母親を助け出す術はどこにもないのか。
本当に北山大学で良いのだろうか、やはり「がんセンター」にもう一度行ってみるべきなのか、それ以外の道も他にあるのだろうか、考え出したら迷いは尽きない。
そんな焦りとも言える思いの中で南大野にやって来た。4月18日には北山大学に母親を連れて行く予定でいる。しかし通常の外来診察だけではどうしても不安が残る。
北山大学での治療を決めるにしても、強烈なコネクションがないと心配だ。
万が一にも見落としがあっては絶対に困る。迅速で的確な診断と、そして納得のいく治療方針の説明。
当たり前と言えば当たり前の事なのだが、医者の論理だけで事を進めてもらう危険だけは避けたい。
それには逐一話し合いの場を持ちながら治療の方向性を示してもらうしかない。どんな病気にも幾つかの治療方法が必ずあるものだから、それを医者サイドだけで勝手に決めて欲しくはないのだ。
明日に続く

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