迷子の医者(17)

私は言われた通り母親の病室で待つことにした。母のいる203号室は特室とは言っても、こぢんまりしている。シャワ-ル-ムとトイレがあって後は小さな洗面台が付いているだけだ。
面会の人間が3、4人も入ると、それだけで一杯になりそうだ。まだ出来て間もないのか清潔感には溢れていた。
母は朝方よりは元気そうだ、いくらか血色も良い。私が病室へと足を踏み入れた時は夕食の真っ最中であった。
弟が脇で介助をしていたが食欲はありそうで何よりだ。食欲の有るなしは重要である。病気の快復にどれだけ大きな影響を与えるか分からない。
食事の内容もなかなか良いし味も悪くはない。品数もかなり多く、おかずだけで6種類以上もある。やはり特室のメニュ-は他とは違うのだろうか。
弟は私の顔を見ると時間を気にしながら、今から戻って仕事の続きをやりたいと言いだし、食事の介助を私に委ねた。
5時間以上は母親の許にいたのだ、仕事も溜まっているだろう。介護ビジネスも大変だ、ぎりぎりの採算でやっているので、人手を減らして出来る限りは自分でやるしかない。土日も出勤する事が多いようだ。
だから弟はいつだって忙しく飛び回っている。今日みたいに予定外の用事が増えると仕事の処理も大変だろう。そんな訳で私に後を頼んだ弟は足早に帰っていった。
母親は出された夕食のほとんどを平らげた。「食べ過ぎると、またダイエットが辛いよね」などと、チグハグな事を言っている。それだけ元気になった証拠なのだが、こんな時にダイエットもないもんだと思い、
「こういう病気の時はいくら食べてもかまわないよ。それよりは沢山食べて体力をつけるのが一番だよ」と、
ダイエットの無意味さを説明する。
そんな会話の間に野村教授が一人でやって来た。笑顔で母親の前に現れ
「ご気分は如何ですか。少しは楽になりましたか」
と労りの声をかけて下さる。慈愛に満ちたお医者さん、そのものの表情である。
そして私の方に向き直り
「どうも、お待たせして済みません。それでは少しお話をしましょうか。どうぞ、こちらの方へ」
と言って、同じ階のカンファレンスル-ムに私を案内してくれた。
6畳一間ぐらいのカンファレンスル-ムに通され、先ずは社交的な挨拶
「今日は至急の入院をお引き受け下さって、有り難うございます。我々家族もほっとしております」
と述べ、そして最も重要な質問に移る。
「今日は胸腔穿刺をなさいましたよね。それで、どうでしたか胸水の量は。胸水の色は血性でしたか、他に何か分かった事は」
と、矢継ぎ早の問いかけを始めてしまう。やはり気持ちが焦っているのだ。
そんな私の性急な質問に、嫌な顔の一つもせず野村教授は、ゆっくりと確認するように一つ一つ答えて下さった。
「今日は試験穿刺だけなので20ccぐらいしか抜いていません。しかし、もっと溜まっているでしょうね。胸水は今日の感じでは血性でした」
との回答である。
「それでは癌生胸膜炎を起こしてるのでしょうか」
と、畳みかける様に私が訪ねる。
それが一番の問題なのだ。
「その危険性は十分に考えられます。しかし今日の段階では未だ何とも言えませんね」
と、言葉を選びながら野村教授は、お答えになる。
明日に続く
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