迷子の医者(23)

北山大学までの道のりは、帰りのラッシュアワ-の時間とも重なり混んでいた。1時関半近くもかかってしまう。車は病院玄関の面会通用口に着けた。父親も近頃はかなり足腰が弱くなっている。昨日の母親の様に駐車場から歩かせる訳にはいかない。それに昨日の事では私の胸の中に大きな悔いを残していた。
69歳で脳梗塞に倒れ、その後はずいぶんと回復した父親だが、やはり80歳の声を聞くと足腰の不自由さは目立って来た。それでいて気忙しいさは年々強まっている。
だから周りの人間たちは何時だって落ち着かない。そんな父親を玄関口で何時までも待たせておく訳にはいかず、駐車場から私は早足に戻って来た。
母親の病室まで左足を引きずりながら歩く父親の後ろから、付かず離れずついて行く。
せっかちな気性なだけに、そんな自分に父親自身が少しイラ立っている。
「車いすでも用意しましょうか」
などと言ったら、確実に怒鳴られるだろう。今もって気位は高い。見栄だけは人一倍強いのだ。
でも、それで良いと思う。見栄も張れるうちが花だ。見栄も無くなれば老いは一気に進んでしまうだろう。そう考えれば少しぐらい依怙地な方が、父親らしくて良いとも思えるから不思議だ。
新病棟の8階203号室、昨日と同じ母親の病室に父親の後から入って行く。
「あら、来てくれたの。別に来なくても良かったのに」
と、言った顔つきの母親である。父親に向ける視線は少し覚めている。衒いもあるのだろうが、我々子供たちの面会のように素直ではない。
50数年間の夫婦の間の、他人には伺い知る事の出来ない恨み辛みが、そこには蓄積されているのであろう。
そうは言っても、もし父親が一度も面会に来ないなんて事になれば、それはそれで母親も面白くないだろう。自分なんか居ても居なくても、父親にとっては痛くも痒くもないんだぐらいの、ひがみ根性は出るかもしれない。
そうでなくたって病人と言うものは自分の体が自由にならない分どうしたって、ひがみ根性は強くなる。
しかし、いつも気忙しい父親の面会は、我々のみならず病人の母親さえ落ち着かせない。
何だって一年中せかせかしているのだ。生来の気質とは言え、いつも何かを急いでいる。一ヶ所に気持ちを留める事が出来ない。
父親はこれまでに実に多くの事業に手を出して来たが、その移り変わりの激しさと言ったらない。どんな事業にだって多少の浮き沈みはあるものだが、じっと我慢をし続ける事が大の苦手なので。良くも悪くも長続きがしない。
その尻拭いは何時だって母親の仕事だった。
アイディアと企画力には優れたヒラメキを輝かせるのだが、持続力のないのが最大の欠点である。
一方の母親はと言えば、忍耐心が強く仕事の大変さに弱音を吐くと言う事は決してなかったが、決断力に乏しく自分の責任で何かを実行するのが嫌いだった。
まるで性格の異なる夫婦が互いの弱点を補いながらも、ともかく我々兄弟3人を育て上げて来た。戦後の廃墟の中から、時には争い時には傷つき合いながらも、大きな時代の変化のうねりの中で必死に泳ぎ切り、それなりの成功は収めて来たのだが。
しかし彼等、夫婦の関係は単純ではない。夫婦喧嘩は絶え間なかったし、離婚話も幾度ともなく出ては消えた。
愛し合っていたのか憎しみ合っていたのかも定かではない。愛とか憎しみとか、そんな安易な表現で説明がつくものではないのかもしれない。
明日に続く
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