迷子の医者(36)

6月2日(土曜)
あさくら病院での十七日目
麻薬のアンペック坐薬(30mg)の一日三回使用が充分な効果を発揮し始めて来た。疼痛の訴えもなく食事も取れず一日中ウトウト寝ている。補液量は最低限の520mlで生命維持量としてもかなり少ない。
それでも呼吸状態は、また少しづつ悪化している。マスクでの酸素濃度は6Lまで増やしていたがSpO2は92~93%を維持するのがやっとだ。
午後2時過ぎに母は突然目を開け、
「あんたも自分の体に充分注意し頑張って生きて行きなさいよ」
と言って、真っ直ぐ私の顔を見た。
はっとして、私は母の手を取った。
しかし、何事も無かったかの様に母はまた眠ってしまった。
死の瀬戸際まで子供を思う気持ちの母に、私は急に幼な子に戻って
「おかあさん、死んじゃ嫌だ!嫌だ!ぼくのおかあさん、おかあさん!」
と泣き叫びたい衝動に駆られた。
しばらくして私は医者としての冷静さを取り戻す。
母の死期は思った以上に早いのではないかとの不安から、親戚中にその事を電話で報告する。
「どんなに保っても今月一杯かもしれない」と、告げる。
しかし、そこに何の意味があるのだろうか。そんな報告を親戚にする必要があるのか。この核家族化した時代で親戚とは何であるのか。私の中で妙な疑問が湧いた。
でも、それは私の個人的な見解であって母の考えは違うと思う。私の世代と違って母は、小まめに親戚付き合いをする人だった。そんな母の意志を尊重するなら、やはり母の病状の変化は報告すべきだと考え直した。
人は誰しも、その人生の中で三回は多くの人達の噂に上ると言われている。
一度目は誕生の時、
「誰々さんの所に可愛い赤ちゃんが産まれたらしいよ、かなり難産だったらしいけど今は母子共々元気だって」
と云う話はよく聞かれる。
二度目は結婚の時である。
「新郎新婦ともお似合いで、とても良い結婚式だったわよ」
と、式に出席した人達の多くが語る。
三度目が挽歌の時である。
その死を悼んで棺(ひつぎ)を挽きながら哀しみの歌を歌う。現代社会では、この様な風習は失われているが…
その挽歌の時が母の身に日一日と迫っている。
6月3日(日曜))
あさくら病院での十八日目
今朝は10時過ぎに起き出し朝食を取る。午後1時病院に出向く。
母の呼吸状態は改善しない。マスクでの酸素濃度は6L、SpO2は94%と昨日とほとんど変わらない。もちろん食事は一切受け付けない。37.3°Cと微熱が
出て来た。一日中ウトウトしているが、時々は目覚める。
午後3時前に母は一度目覚め、
「もうすぐ良くなる、もうすぐ良くなる」と、
小声で呪文のように一人つぶやいていた。そこに母の生きる執念を感じたが、医者である私は全くの無力だ。
母を労る言葉さえ見つからず、その痩せ細った手を握りしめている事しか出来なかった。
明日に続く
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