迷子の医者(37)

6月4日(月曜)
あさくら病院での十九日目
本日より北山大学を紹介してくれた、あの村上先生が常勤医師となり活躍してくれる。心強いばかりである。
しかし母の病状は確実に悪化の速度を早めていた。生命維持以下の最低限の補液量でも、癌性胸膜炎による胸水は徐々に溜まって行くばかりだ。利尿剤の効果も明らかに低下している。
マスクでの酸素濃度は5LでSpO2は95%と呼吸状態は変わらないが、傾眠状態はより深く、そして長くなっている。
午後8時30分、自宅に戻り夕食を取っていると病院から連絡が入る。母の意識レベルの低下が著しいとの説明だ。
すぐ病院に駆けつける。
確かに夕方の帰る前に見た時よりは、意識レベルの低下が明確だ。*JCS*
III-200レベルだ。痛覚刺激に対して、わずかな反応を示すだけだった。
直ぐに弟と妹そして父に連絡をする。
午後11時半、弟の車で父が病院にやって来る。しかし父は、
「めまいがする」と言って
そのまま隣りの病室で母の顔も見ずに寝込んでしまう。
父の血圧を測ると220/120mmHgと
相当に高い。
「このまま一緒に棺桶に入りたい」
と言って、騒いでいる。
ともかく父の腕に精神安静剤の注射をして気持ちを落ち着かせる。そのまま入院扱いにして見守る事にした。
6月5日(火曜)
あさくら病院での二十日目
父も何とか寝付いた所で、午前1時半弟と妹の二人は家に帰す。私は母のバイタルサインをしばらく見続け、未だ数日間は大丈夫だろうと確信し午前4時には自宅に戻る。そのまま午前10時ぐらいまで倒れる様に寝てしまう。
午前11時半には病院に出掛ける。
母の意識レベルは低下したままで回復する様子は全くない。父は精神安静剤の注射が効いた様で、充分に熟睡して血圧も落ち着いて来た。朝食もしっかり食べている。
午後2時、妹の車で帰って行く。
午後7時からは病院近くの小料理屋で、昨日から常勤となった村上先生の歓迎会、母の病状が不安定なので普段よりは、かなり細やかな歓迎会だった。
参加者もわずか10名に過ぎない。
私はもちろん飲酒はせず、午後10時一度病院に戻る。母の病状に変化はなかった。悪い意味で安定していた。
6月6日(水曜)
あさくら病院での二十一日目
梅雨入りである。しかし、そんな季節の移り変わりとは無縁の世界で、ただその日その日を精一杯生き抜いていた。
母の危篤状態は続いている。母が最も気にしていた褥瘡が、小さいながら仙骨部に出来始めた。10日前からエアーマットも使用し充分な注意を払っていたのだが、直径3cmと1cmのものが二ヶ所に出来てしまった。
二日前に意識レベルが急激に低下した時、出来てしまったのだろう。
父は、そのまま自宅で待機していたが情緒は極めて不安定で遺言とか相続の話ばかりをしている。
それのみが親としての最後の威厳を保つ証でもあるかの様に…
弟や妹たちは、そんな父の一言一言にかなり振り回されていた。
その時の私は、はるか遠くで遺言とか相続とかの話を聞いていた。そんな話に付き合っている様な心の余裕もなかった。
明日に続く
*JCS*
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