小さな贈り物(1)

ある地方都市の総合病院と云うには、やや貧弱なベッド数70床足らずの、2階建ての町立病院に私が大学から派遣されたのは34才の年でした。
小児科と内科、産婦人科、一般外科の標榜科目がありました。
内科の私は小児科と内科を担当し、外科のA医師は一般外科と整形外科を担当していました。それに50才近い産婦人科医が一人います。内科医だけは私を含め三名体制でしたが、それにしても医者は全部で5人だけの所帯です。
「大変な所に派遣されたな!」
と言うのが、その時の私の絶望にも近い思いでした。
人口一万人にも満たないこの町の基幹病院で、一日の外来患者数は150名前後でした。
農繁期になると外来患者は減り、入院ベッドは30床以上も空き、午後3時ぐらいには一日の仕事もすっかり終わり、近くの小川で魚釣りを楽しんでいました。
逆に農閑期には外来患者は一日中、押しかけ午前中だけで内科医の私が一人で100名以上診る事が当たり前でした。入院ベッドも超すし詰状態で、普段は埃だらけの倉庫までが病室に早変わりして、朝は8時半頃から夜は9時過ぎまで働き通しです。
仕事の忙しいのは我慢出来ましたが、単身赴任だった私に取って一番辛かったのは、しばしば夕食に有り付けない事です。
この小さな町では夕方も7時半を過ぎると殆んどの店が閉じてしまうのです。一日中働き通しで夕食も取れず、空腹感のまま布団に入る切なさは辛いものでした。
そんな田舎の病院に28才の妊娠7ヶ月の経産婦が、重篤な妊娠中毒で産婦人科に入院して来ました。血圧210/120尿タンパクの一日量は4g以上、全身浮腫も著明、心肺機能の低下も著しく、とても正常分娩に耐え切れないと判断した産婦人科医は外科医との協力の許、ご主人の同意を得て即刻に帝王切開を実施しました。
取り出された胎児は体重が760gで、その生存は最初から諦めていました。
当初は脊椎麻酔での手術を予定しておりましたが、それでは心肺機能の低下に耐えられないだろうとの判断で全身麻酔に切り替えられました。
手術後も弛緩性出血が容易には収まらず、陣痛促進材と輸血が繰り返されました。
手術後10日経って、弛緩性出血は改善したものの、多量のタンパク尿は軽快せず典型的なネフローゼ症候群の合併が認められました。
この時点で婦人科の患者さんは私の受け持ちとなりました。
医者となって7年目の私には、かなり手に余る患者さんでした。
先ずはステロイド療法でネフローゼ症候群の治療に当たり、そして塩分、タンパク質の制限、抗凝固剤の併用と最新の医学雑誌と首っぴきで、知り得る知識を全て導入しました。
病状は一進一退でした。
患者さんの夫は30才でダンプの運転手ですが、5才になる女の子がいました。時々は二人で見舞いに来て、
「ママは元気になるよね!」
と言って、私の白衣の袖を引っ張ります。私は何と答えて良いか分からず、
「ママは頑張っているからね。おねえちゃんの名前は何て言うの?」
「ナナ」
「ナナちゃんて言うんだ。ママが早く元気になると良いね」
としか、私には答え様がなかった。
明日に続く
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