中沢家の人々(2)

結局は富江と息子の清吉が経営する食堂「ことぶき」が生活の糧になっていた。
富江の母も、数年前まではそれなりの働きをしていたが段々と動作が鈍くなり店の役には立たなく成っていた。
1945年の終戦直後は、バラック小屋同然の「ことぶき」だったが、1950年の朝鮮戦争から日本経済は急激な回復を遂げ、「ことぶき」の売り上げも急上昇していった。
戦争から戻って8年目、当時46才だった貞雄が
「よし、俺が立派な店を作ってやる」と、言い出した。
「でもお前さん、家には未だそんな蓄えはないよ」と、富江が心配するのを、
「馬鹿野郎、金があれば立派な家が出来るってもんじゃない。要は気合だ。黙って俺に任せとけ」
と言って、何処でどうやって材木を工面したのか分からないが、日夜の別なく図面を引き、知り得る限りの材木商を駈けずり回り、ともかく猛烈な勢いで家を作り始めた。
バラック小屋に隣接する空き地60坪を50年の借地権で、ただ同然で手に入れた。
新宿に近い、新大久保駅から歩いて5分ぐらいの立地条件の良い場所だった。
夜は12時過ぎまで図面を睨み回し、朝は6時前から仕事の支度をはじめ、雨の日は材料集めに奔走している。
時には食事も忘れ、
「お前さん、食べるものは食べなきゃ体に毒だよ」
などと富江が言おうものなら、
「うるさい、向こうに行ってろ。腹が減ったら体が教えてくれる。仕事の邪魔をするな」
と、取り付く島もない。
夜は夜で、「どうだい、たまには一本熱いのをつけるかい」
などと部屋に入って行くと、
「馬鹿、誰が酒を飲みたいなんて言った。まあ、丁度いいや。眠気覚ましに濃いお茶を持って来い」
といった有様で、まるで人が変わってしまった。
「鬼神に横道(おうどう)なし」
を、そのまま地で行くように貞雄は、わずか一年足らずで家を立派に建ててしまった。
それも木組みを使う伝統的な工法で、釘など一本も使用せず、瓦は三州瓦と云う凝りようだ。正に貞雄の大工職人として心魂を傾けた家造りであった。
一階部分は40坪の料理屋で二階は30坪の住居の総建坪70坪の家が
1954年3月に完成した。清吉が中学三年の時である。
これを見てぶつかり合う様なバラック小屋同然の店で、鎬(しのぎ)を削る様にして日銭を稼ぐことに汲々としていた周りの連中は腰を抜かすほど驚いた。
「中沢さんの所には、何処にこんな家を造る金があるんだい」
と、口々にやっかみ半分の陰口をたたいていた。
この噂を聞いて、素封家(そほうか)の幾人かが、貞雄に家造りの依頼をして来た。
明日に続く
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