中沢家の人々(5)

ともかく寒気で富江は目を覚まし時計を見た。針は7時を指している。脇の母親を見ると息が止まっているようだ。
「お母さん、お母さん」
と、体を揺り動かすが全く反応がない。家中が大騒ぎになった。
誰の目にも医者を呼ぶ必要性は感じられない。それでも確認はしてもらわなければ…と、雪で帰れなかった仲道が救急車を呼んでくれたが、すでに死亡は確定しているので警察に連絡する様に言われ救急車は帰ってしまった。
次に警察が来て「検死」となったが、死体検案書には「急性心不全」と書かれてあった。
葬儀により店は5間休んだ。
清吉も高校3年の2月は、ほとんど学校に行く事もなく、そのまま直ぐに卒業式となってしまった。
清吉は晴れて仲道の許で本格的な板前修業を励む事となった。
かつては花板と言われた仲道が、深川の一流の料亭で板前頭として働いていたのに、何故三流の料亭でもない「ことぶき」で仕事を始めたのかは、それなりの辛い過去がある。しかし、その事に関しては一言も話さなかった。
ともかく葬儀の終わった中沢家は花板の仲道が中心に清吉が助手となり、富江がレジ専門で外回りのパートを雇いながら店の営業は順調に進めていた。
店は和食が中心に売りあげも、うなぎ昇りだった。
貞雄も相変わらず、ムラっ気は多かったが、それなりに良い大工仕事は熟していた。
日本景気の上昇と共に「ことぶき」の売り上げも順調に伸びて行った。
清吉は仲道の許で徹底的に鍛え上げられ、本人自身が料理好きである事も手伝って、めきめきと腕を上げて行った。
20歳の年には何処に出しても恥ずかしくない立派な板前に仕上がっていた。
それに伴って客足も増える一方だった。あそこの店は値段の割に本格的な日本料理を食べさせると、評判が評判を呼んでランチメニューの時間帯には店の外には50人以上の列が出来る事もあった。夕方の営業は6時から11時までで、5時半から店の前には人が並び始めていた。閉店も殆んどが12時近かった。酒も日本中から銘酒を100本以上は常時取り備えていた。
店内も貞雄をおだて上げ6畳の座席三つとテーブル席も少しずつ増やして行った。
厨房も仲道を筆頭に清吉、さらに板前修業を二人置き、外回りも5人に増やしたが、それでも店は戦場の様な忙しさで店員の食事タイムは一人15分ぐらいがやっとで、皆んなは駆け込む様に食事についた。
レジ会計は富江が専任していたが高額紙幣の千円札は直ぐに山のようになってレジの下の金庫に次から次へと押し込まれていった。
正に「金のなる様な木」その物の店だった。板前修業の給料は月8千円、パート女子職員の時給は60円、休みは週に1日で1日の勤務時間は12時間程度が普通の時代で誰一人文句を言い出す者もいなかった。1日の売り上げは15万円以上で3割以上が純利益となった。月の純利益だけで150万円近かった。現在の貨幣感覚で言えば月に3千万円以上にはなっていたであろうか。年間にすれば現在の貨幣価値で4億円近い金である。
明日に続く
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