中沢家の人々(12)

工場長から、お見合いの話を持ち出された時は紀子はひどく狼狽した。
「一体何のお話ですか?…簿記1級も取れず夜学に通い続けている私に、お見合いなど早すぎます。それに時間も無いですよ。今だって毎日の生活をギリギリに生きているのですよ」
「まあ、紀子ちゃん…そんな風に一方的に言われちゃ俺には返す言葉もないじゃないか。この工場に取っても紀子ちゃんは貴重な存在だ。結婚にでも行かれちゃ一番困るのは俺自身なんだよ。それが実の兄貴に見合い話を持って来られては無下にも断われないだろう。何も見合いをすれば直ぐに結婚と云う話になる訳でもないし、ここは兄貴の顔を立てて一度だけで良いから付き合って欲しいんだ。頼む、この通りだ」
と、工場長に頭まで下げられたら簡単には断われない紀子だった。
「分かりました、それなら一度母に相談しても良いですか?」
「もちろんだよ、当然お母さんには相談すべきだよ。出来たらお母さんと一緒だともっと良いんだが…」
「な~に、お見合いと言ったってそんなに大袈裟な話ではないんだ。ちょっと美味しい物を食べに行く程度の話だよ。
相手は清吉さんと言って紀子ちゃんより4つ上だが、新大久保で料理屋を経営しているんだ。
彼のお母さんとお店をやっているんだが、事実上の経営者は24才の清吉さんみたいなんだ。高校時代から始めは手伝い程度の仕事だったらしいが、本人が根っからの料理人で、休みの日も料理の研究ばかりしているらしく、この数年店は繁盛するばかりで客は何時も列をなしていると兄貴が言っていて、その売り上げはこの工場の10倍以上にはなるかもしれないと兄貴が言うのだ」
「10倍ですか?…食べ物屋さんてそんなに儲かるんですか」
紀子の表情が少し変わった。先程の否定的な態度が和らいだ。
「夜は飲み客が多いから昼食の時間帯が良いと思うのだが、お母さんに相談してみてよ。土日でなくても良いよ。旅館業だと土日は休ませてくれないだろう。ただし水曜は向こうのお店が休みだから、それ以外の平日が良いと思うよ」
「でも平日は私も仕事がありますから…」
「な~に1日ぐらいなら休んでも俺が許可するから問題はないさ」
「そんな、そこまでお言葉に甘えて良いのですか、夜学まで通わせ貰っているのに…」
「良いんだよ、そんな事より俺は兄貴にせっつかれ参っている所だったんだ。紀子ちゃんがOKしてくれたので助かった、これで話は決まった。後はお母さんと相談するだけだ」
「分かりました、直ぐにでも母と相談してきます。今ちょうど午後1時ですから母の休み時間だと思うのです。勝手ながらお店のお電話をお借りしても良いですか?」
「良いに決まっているよ、直ぐに掛けてみなさい」
「有難うございます、それでは使わせてもらいます」
明日に続く
関連記事

コメント